まだビームが撃てない

レーザーはもう撃てる

アイアンマン


久々に映画のアイアンマンシリーズを見直してた


アイアンマン2のレース場襲撃シーン。やっぱりCGがすごいぜ。切断されるレースカーの溶けた断面や飛び散る破片なんかを細かく見ていた。そういう細かい部分の作り込みなんかは、普段なら何気なく見過ごしてるけど、気まぐれに注意深く見てみるとどこを見ても隙がないなと感じる。


そしてアイアンマンマーク5のスーツ装着シーン!!すごすぎ。トランク型のスーツを踏みつけると四角いスーツケースがバシャンと展開、折り紙のように畳まれて格納されていた装甲や部品がガッシャンガッシャンと全身に装甲されていき、ただのおじさんがアイアンマンに変身する。どう考えても現実には無理すぎる装着工程ではあるけど、装着される瞬間にまわるネジや装甲の小さい部品の、ひとつひとつまでこまか〜く描写されていて「もっともらしさ」を感じてしまう。こんな緻密な映像が10年以上も前に…


50年後にはこのマーク5のCG描写も「古くせ〜」とか言われるんだろうか。未来のCG技術は今よりもずっと上がっているだろうから、当たり前かもしれなくて、ちょっとさみしいことで、ワクワク半分悲しさ半分だ

そのうち、CGは現実よりも美しくリアルなものを表現しはじめるのかもね(現実より美しいもの、というのはむしろCGの得意とするところでしょうが)


前にアイアンマンを見た人に感想を聞いたところ、お話がご都合主義的すぎるというか、欺瞞的すぎてあんまり楽しめなかったとの感想をもろた

まあ、そうかも。こういう映画の筋書きは大抵決まりきっているし。主人公が個人的な課題を乗り越えつつ、最後は美女と多少いい感じになるのがお決まりだし。アイアンマンシリーズもおおまかにはそういう流れだもんね

あと、物語の進行のうしろでは、多くの死人が出ていることとか。マーベル映画のヒーローたちは不殺主義者なので、相手がよほどの悪役だろうと人命を奪うことはまずない。登場人物の直接的な死亡シーンや、一般人の死を匂わせるシーンもない。しかしヒーローたちの戦いはド派手だから、多くの人命が失われていることは想像のできること。本編に関わるキャラクターたちがそのことに触れることは、ほぼない。


2時間すこしの映画で本編とは関係ない通行人が一人死ぬたびに、その命の重みを描写しないといけなければ、おそらくかなりつまらない映像が出来上がるだろう


オードリー若林さんの本に出てきた「枠組みがあるから逸脱が生まれる」という言葉を思い出した。テレビ番組には決まったオープニングがあって、お決まりのコーナーがある、というようなこと。それらの枠組みがあるからこそ「オープニングがない」「あえてコーナーの趣旨とズレていることをする」といった逸脱した演出やユーモアが実現する。

アイアンマンもヒーロー映画全体にとって「枠組み」みたいな存在かもしれない。そういった枠組みがあるおかげで「ヒーロー映画の裏では無関係の人々が死んでいる」ということをメイン取り扱うような「逸脱」した作品の面白さが際立つのかもしれない


Amazon prime videoで「The Boys」というprimeオリジナルドラマを見た。スーパーヒーローたちによる自警活動が国ぐるみで行われる社会で、ヒーローの行動に巻き込まれて女性が死んでしまう。その彼氏が復讐を果たそうとするお話。これは間違いなく逸脱の作品だな〜

1話はかなり引き込まれたけど、全体的に下品すぎるのと、2話から演出方針がガラッと変わってしまったように感じて、続きを見るのをやめてしまった。結末は気になるので気力が出たら見よう

という感想を勧めてくれた人に言ったら「面白くなかったなんてこと、わざわざ言わなくてもいいのに…」と言われて、たしカニ🦀と思った


これらの文章、着地点が決まっていそうで全く決まっていなかった


川崎でした