まだビームが撃てない

レーザーはもう撃てる

よく考えるとハガレンはかなり面白かった


漫画   鋼の錬金術師はかなり面白かったことを思い出した


読んでいたのはハガレンがまだ連載していた当時、小さい頃だったけど、当時はハガレンのことが好きすぎて、毎日ハガレンのことばかり考え、物語の続きがとにかく気になっていたのを思い出した。現在のハガレンへの気持ちとしては「子供の頃好きだった漫画」という古い記憶の引き出しに入っており、なぜ当時はあんなに好きだったのだろう…なんて思っていたけど

読み返してみたら今でも全然好き

子供の頃のピュア〜な感性だからこそ、あの漫画に惹かれたのかもな…なんて偉そうなこと思ってたけど、年齢層的にも当時の自分よりも上の世代向けの漫画だったな。当時よりむしろ、今の方がより深くあの作品を楽しめる部分はあるかもしれん


基本的には、少年漫画的なノリでハガレンの物語は進行していく。色々なところに旅をし、悪い大人キャラクターたちの陰謀に巻き込まれ、より強い強敵と出会い、戦っねで分かり合い味方になり、逆に味方はまた敵にもなったりして。しかし、話のメインはバトルではなかったように感じる

バトルがメインの漫画では、主人公の修行やパワーアップイベントが挟まれることで、物語にメリハリがついたりするけど、ハガレンは人間同士のドラマの方がより多く描かれ、たま〜な熱いバトルはあっても主人公はパワーアップしたりしない。なんなら主人公のエドワード・エルリックの戦闘力は物語開始時点から、登場人物たち全員の中でも超上位。錬成により何もないところから剣や槍を作り、元から強い。さらに敵を倒すことが目的の物語でもないので、強くなることは本人にとってあまり重要ですらない。

主人公の目的としては「過去の過ちによって失った手足と弟の肉体を取り戻す」ことが終盤まで一貫しており、そこに目掛けていく過程で陰謀に巻き込まれ、巨悪と立ち向かうことになる


新しい敵キャラクターが登場した時点で相手とエドワードとの戦力差は変わらず、最後まで固定されている気がするな。素の戦闘力ではエドワードに勝ち目がなかったりする。なので機転や閃き、他者との協力でそういった敵に立ち向かう展開が多かった…よな。たぶん。主人公が戦う手段を新しく身につけたりしないことで、戦闘力面のインフレが一切起こらないのはいい仕組みですね。戦う漫画でありながら、成長していくのは戦闘力ではなく内面なんです

弟のアルフォンスが錬成陣なしで錬成できるようになったのも、当時は気づかなかったけど漫画らしい王道のパワーアップイベント的なノリだなあ。しかし、そのキッカケは偶然の産物なのですごく自然な展開だったね


5巻あたりまでの、機械鎧を直すためにウィンリィのいる故郷に帰ったり、色々な街に行くという「旅」の感じはよかったなあ。すごく想像力に溢れた作品だ…。当時としても、現実に存在する生身の人間があの漫画を描いている…ということをうまく想像できなかった記憶あり。後半はアメストリス(我々の世界でいうアメリカ)に舞台が固定されて、暗躍するホムンクルスたちとの総力戦とかがメインになるから、ちょっと鬱屈としてるんだよな。ワクワクするけども。

エド錬金術研究書が旅行日記のような形で暗号化されている、という設定なんかは本筋には一切関係のない話だったけど、好きでずっと覚えている。フロムゲーでいうところのフレーバーテキストだ。マスタング大佐は女性たちの名前とかにしてるんだよなたしか。いいキャラクターだよほんと

気持ちがあちこちに向かっている文章だ


今、6巻をすこし読んだ。エドとアルの過去編、イズミに弟子入りするために無人島で修行をするところ。エドの「客観的に見りゃ俺が死んでもこの世界は何事もなかったかのように回り続ける」という、12歳(だったかな)の子供とは思えない深い洞察。

これを読んだのは頃の俺はエドよりも年下で、なんとなくその思想を分かったような気になっていたけど、今でも分かったり分からなかったりだな。自分が死ぬこと自体は主観的には大事件だけど、周りの人間、地球、宇宙というそれぞれのスケールで見れば本当に大したことのないこと。なのに、死について主観でのスケールでばかり考えてしまう(まあそりゃそうだろという感じだが)

何かを分かったような気になったり、やっぱり分からないよ〜と落ち込むのをグルグル行ったり来たりするばかりで、でもそれが大切なんやろねと最近少しだけ感じられるようになった


川崎でした。