まだビームが撃てない

レーザーはもう撃てる

さみしい事実


最近の俺の日記は「体の調子がいい」「体の調子が悪い」しか書いてないし、なんなら「体の調子がよくなかった」の割合が多すぎてウケてしまいます。しかし、その日の調子というもの、その日の俺にとって全てである


Twitterの人から連絡があって、飼っていた猫が亡くなったとのことだった。数ヶ月に一回くらい猫ちゃんの写真を俺宛に送ってくれたりする人で、濃いつながりがあるわけじゃないけど、SNSTwitterらしい距離感でもある「ゆるいつながり」のある人だった

いくつか送ってくれた写真の中でも、俺のお気に入りはトイレで中腰になってる猫ちゃんのポーズだった。俺がその猫だったらきわめて不愉快だけど、猫ちゃんはただ迫力のある姿勢で前を睨みつけるのみだった。その視線の先にファブリーズ(スプレータイプ)が置いてあったとのことで、ちょっとメッセージ性を感じてしまう

猫のこといつも「猫ちゃん」と書いてしまうけど、俺のこの脳が「猫ちゃん」と思ってしまうからには、全ての猫は猫ちゃんである

我々が飼育するような動物は、たいていは我々より早く生まれて、我々より早く老いて死ぬ。変なことだな。その動物の赤ちゃんだった時期も老いた姿も、全部見ていくことになる。我々より先に死んじゃだめなんだよ君たちは


今年の1月に、一緒に生活していた鳥が死んだことを思い出した(飼っていた、のではなく共に生活していたと書いておく)。鳥がまだ生きている頃、鳥が死ぬ瞬間のことはよく考えていた。こいつ、今は元気にボンヤリしているけど、いつか死んで冷たい死体になるんだよなあ…みたいなこと。ある日の朝起きると冷たくなっているのか、それとも目の前で死ぬのか。そう考えると、なんとなくやさしく接してしまったりする

好きな漫画に「死を考えるからこそ生を考える」という言葉があって、そのこともよく思い出す。自分自身の生死だけではなく、他者や動物の生死もそうなのかも。自分が明日死ぬと分かっているなら今日の日はより丁寧に生きられるだろう…なんて教訓はよくあるけど、他者についてもそうだろうな。相手が明日死ぬと分かっているなら、よりやさしく接してしまうだろうし

死について考えると思考が無軌道にアチコチにいってしまう


鳥が死んだことを人に話したとき、その人は「あなたが死んだとき、天国の入り口にその鳥が飛んできて導いてくれるよ」なんて言ってくれた。うちの鳥はそんなことをしてくれるほど人のことを好いていたり、知能が高いとも思っていなかったから(アホかい)と思いつつ「そうですよね〜」と返事した

しかし、そんな展開を心から信じることができていたなら、鳥の死に対して寂しい気持ちを抱かなくて済むかもしれないけども…やっぱりあの鳥はそこまで賢くないし無理だろうな

でも、あの鳥のにおいはもう一度嗅ぎたいな。今でも鳥の体温や匂いは鮮明に覚えているけど、ここからその記憶が劣化したり美化されていったり、とにかく現実とは違っていく一方なんだろうね。俺が俺の脳という頼りない臓器を使って世の中を解釈しているかぎり、鳥の匂いに限らず、過去の記憶はきっとすべてがそうなっていくのかな〜

ストレスを抱えずに生きていくためには必要な脳の機能でもあるんだろうけど、今日の俺にとっては、ただたださみしい事実


そんな感じ

川崎でした。